
高橋紹運 死して生かす 享年38歳 紹運は号で、本名は鎮種である。大友家重臣、「豊州三老」が一、吉弘鑑理の次男として生まれる。元亀元年(1570年)五月、岩屋・宝満城の城主、高橋鑑種が毛利家へ寝返った。討伐後、高橋家は断絶されるところであったが老臣達の願いにより、降伏条件として鎮種の高橋家への養子入りが大友家に認められ、鎮種は高橋家を継いだ。のちに剃髪して「紹運」となる。 紹運は若年の頃より寡黙であったが、勇敢で沈着冷静なその一言には重みがあったという。秋月家との戦いでは、その軍才を遺憾なく発揮している。以降、立花道雪とともに大友家の双璧として大友家の要となる。そんな二人であるからすぐにその交わりは親密なものとなり、道雪のたっての頼みで紹運は嫡子、統虎を道雪の養子に入れた。 道雪は当主宗麟を時には諫言をもって長年支えつづけた大友家の柱石である。しかし、その道雪も天正十三年(1585年)九月、陣中にて世を去る。紹運は戦陣を共にしてきたこの名将の跡を継ぎ、傾きつつある大友家の柱石たらんとした。島津の度重なる侵攻に宗麟は秀吉に庇護を求めたが、その当時秀吉は家康と対峙しており九州救援どころではなかった。好機とばかりに島津は猛然と北上した。 島津の思惑は秀吉到着前に九州を統一し、秀吉に上陸する余地を与えないというものであった。しかし、その島津の野望を阻んだのが大友家の堅い守りである。その全てを指揮していたのは紹運であった。紹運は敢えて島津勢が最初に攻撃するであろう岩屋城に入城した。主将である紹運が敢えてこのような行動を取ったのは、島津勢に迂回されて立花城を衝かれるわけにはいかないからである。立花城には、立派な若武者に育った紹運の実子、立花統虎がいた。また宝満城には、次男の高橋直次もいた。紹運は自らを囮としたのであった。 篭城戦は十四日間にも及び、紹運以下七百六十三名城兵は尽く玉砕した。対する島津勢の損害は死傷者四千五百を越えた。島津勢には岩屋城よりも堅固な立花城を力攻めする余裕はなかった。ましてや守将は立花道雪・高橋紹運の忘れ形見である。 そして島津勢が無為な包囲を続けるうちに、秀吉が到着するのである。 紹運は死して、大友家を、息子を生かした。統虎はその後、立花宗茂と名乗り、不敗の名将となる。 |