佐竹義重 鬼略冴える、鬼義重 佐竹氏は清和源氏の流れをくむ、関東屈指の名家である。戦国時代に入り、「佐竹中興の祖」と呼ばれる義舜は、組織や命令系統が散漫になっていた家臣団を再編成し軍事力を充実したり、佐竹氏が戦国大名としてのし上がる基礎を固めていった。しかし、働き盛りという48歳で没する。天文14年(1545)、子の義篤が若干11歳で佐竹氏の家督を継ぎ、一族に補佐されつつも北へと勢力拡大するが、これも若くして世を去る。さらにその子の義昭がこれも若年で家督を継ぎ、佐竹三家の助けを受け、北条と拮抗して勢力を保つも34歳で急死してしまう。そして登場するのが義重である。 天文16年(1547)佐竹義昭の嫡子として生まれた義重は、若干12歳にして元服を果たす。元服直後からその行動は積極性に満ちており、佐竹一族の真崎氏に「義」の字を与えたり、父と連盟で家臣に所領分配を行っている。永禄5年(1562)義重は家督を継ぐと、さっそく常陸統一に着手した。と同時に結城氏・宇都宮氏らと同盟を結び、その盟主として関東小田原の北条氏に対抗した。永禄8年(1565)には、将軍家の権力再興を求める足利義昭から援助を要請する書状が届くまでに、若き義重の名は知られていた。また、織田信長の台頭を見抜き、早くからこれと誼を通じることに積極的であった。 本格的に勢力拡大に乗り出した義重は、常陸南部、下野、さらには南奥羽へと軍を進めていった。黒糸織の鎧に鹿の角をを冠した兜をかぶり、黒鹿毛の馬に跨り、義重は戦場を駆けた。鎌倉以来の宿敵・小田氏・磐城の白河氏などを屈服させ、常陸のほぼ全域を支配するに至った。それは同時に南に北条という難敵を抱えていた義重がさらに北にも伊達政宗という宿敵を見出すことでもあった。 義重は南の北条に対しては越後の上杉謙信と結び、これを牽制しさらには関東南下さえも目論んだ。しかし、天正6年(1578)の謙信の急死を受けて、これを断念、その矛先を北へと転ずる。義重は次男義広を、会津のこれも名家である蘆名盛隆の跡目に送り込むことに成功し、蘆名氏を事実上吸収することに成功する。これで政宗との対立は決定的なものとなった。 義重と政宗。両雄の野望は摺上原における蘆名、伊達両軍の決戦という形で決着のときを迎える。結果は蘆名勢の敗北であった。合戦に敗れた義広は常陸に逃げ帰り、蘆名氏は滅亡し、会津は政宗の領有するところとなった。この敗北により、佐竹氏に離反する大名たちが相次いだ。またそれを狙ったかのように、北条が本格的に北関東に進出をはじめたのである。 佐竹氏、存亡の危機であった。 そのような中、天正14年(1586)義重は嫡男の義宣に家督を譲って隠居する。若くして家督を継いだ義重のように、義宣も当主に相応しい年齢に達していたのである。 |