最上義光
〜出羽の驍将〜

 最上義光は最上家を近世の戦国大名に成長させ、縦横無尽な権謀術数によって最盛期には五十七万石の大大名にまでのし上げた英雄である。永正17年(1520年)、父の最上義守がわずか二歳で家督を継承したときには、強力な土豪たちの反乱が絶えず続き、居城の山形城でさえ伊達稙宗の管理下にある状態であった。最上家は土豪の反乱、内紛、伊達家の干渉によって権威を失墜させていくばかりであった。「伊達の馬打ち」とまで呼ばれた。

 しかし、天文十一年(1542)十月最上家にとって絶好の機会が訪れる。伊達家において当主・稙宗とその長男晴宗との対立が激化して、天文の乱が起こった。義守はこの機を利用して、稙宗方に味方すると言う名目で晴宗方を攻めて上長井・下長井の全域を制圧した。これにより、最上家は伊達家の支配から逃れるきっかけをつかむ。

 義守は嫡男である義光を忌み嫌い、次男の義時を寵愛する。義光の簡単に人に頭を下げない性格を、傲岸不遜と嫌ったと言う。義守は義時に家督相続をさせたいがため、義光を幽閉してしまう。義光は父の扱いに完全と反抗し、天正2年(1574年)義守を強引に隠居させ、当主の座に着く。国人や一族の力を借りて最上家を保っていた父とは違う道を義光は選ぶ。独力で敵対勢力を調略によって切り崩し、勢力を拡大していったのである。これによって義光は出羽に領国支配体制を築くことに成功するのである。

 家督を相続した義光はさっそく一族や家臣に対する統制を強化する。しかし急な支配力の強化は反発を招いた。弟・義時が統制強化に不満を持つ家臣と隠居していた父をも取り込んで反乱を起こしたのである。このとき、天童・中野・山野辺などの一族の大部分が義時方につく。妹義姫の夫で義弟の伊達輝宗も介入し、内乱は血みどろな混乱を極める。無駄に血を流すことを避けた義光はこの騒乱に和睦と言う形で終止符を打った。

 が、義光の一族への不信はますます募り、天正三年(1575年)弟・義時を誅する。天正十二年(1584年)には天童氏を孤立化させのちに滅亡に追い込み、白鳥長久も山形城に招いて謀殺もしている。また庄内平野の領有を巡って対立を深めていた大宝寺氏の当主義氏を家臣を内応させることにより自害に追い込み、庄内を手中に収める。義氏の後を継いだ義興は、越後の上杉家家臣の本庄繁長の次男義勝を養子に迎え、庄内を取り戻そうとした。しかし、天正15年(1587年)義興はまたも義光の調略により自刃する羽目となる。大宝寺の家督は義勝が継ぐことになり、義光の調略によって大宝寺氏の血は絶える。

 かくして義光は謀略と粛清の嵐により家督を継いで十年余の間に、出羽の南部を完全に掌握するに至る。一族の血を血で洗う抗争を必死で生き抜いてきた結果であった。

 義光以上に急速に勢力を拡大したのが甥の伊達政宗である。畠山、二階堂、芦名氏を次々と滅ぼし奥州に君臨しようとする勢いであった。政宗の生母が義光の妹・義姫であったため、表では友好関係にあったが、裏では互いに謀略をめぐらせ合っていた。天正十八年(1590年)には義姫に小田原参陣前の政宗を毒殺させようとするが、未遂に終わっている。

 文禄四年(1595年)豊臣支配下にあった、最上家に危機が訪れる。愛娘、駒姫を妻妾として嫁がせていた豊臣秀次が切腹を命じられたのである。秀次の妻妾ら三十余人も処刑され、駒姫も首を刎ねられた。義光は娘の助命を嘆願したが許されず、そればかりか義光自身も秀次の謀叛に与したとの嫌疑を受けてしまう。この窮地を義光は徳川家康のとりなしで脱する。この事件以後、義光は次男の家親を家康に仕えさせるなどして家康に近づいていく。そして、関ヶ原でも東軍につき上杉軍をよく抑え、戦後処理によって出羽五十七万石を領する大名へと上り詰めたのである。

 だが、またも最上家で一族の争いが起こる。義光が嫡男・義康を廃し、家康に近い次男・家親に家督を継がそうとしたためである。結果として、かつての義守と義光のように親子で争うことになってしまったのである。慶長八年(1603年)義光は義康を殺害してしまう。そして、義光は慶長十九年(1614年)一月八日、大阪の陣を待たずして六十九歳で世を去る。粛清に明け暮れた一生であった。

 義光は嫡男を殺してでも、幕府との距離を近づけたかったのだが、その努力も結局は実を結ばなかった。家親が家督を継いでも内紛は収まらなかった。家親は豊臣家の人質として秀頼と交流のあった義光の三男・義親を攻めて自害に追い込み、その数年後自らも家臣によって毒殺されてしまう。そして今度は家親の嫡男で若干十二歳の義俊派と義光の四男の義忠派に分かれて争い始めてしまう。幕府がとりなしても鉾を納めないため、山形五十七万石は召し上げられ、わずか一万石に改易されてしまう。その後、義俊も早世し子が幼かったため五千石に減封され、もはや大名ですらなくなった。

 もはや親子や兄弟で殺し合う戦国は終わったことが、義光の子供やその周囲はわからなかった。


最上義光の騎馬像(山形・霞城公園内)
霞城公園二ノ丸東大手門




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