〜アルマダ海戦〜
+概要+
+人物+
+年表+




+緊張するスペインとイングランド+

 スペイン海軍は1571年、オスマン帝国をレパント海戦にて撃破し地中海における制海権を確立した。一方、イングランドは1560年代からスペインに敵対する行動を少しずつとり始めていた。1568年のネーデルラントのスペインに対する叛乱がますますそれに拍車をかけた。イングランドにとって、スペインとの通商関係はともかくネーデルラントとの通商停止はアントワープを経由する毛織物輸出がストップすることになり、非常に打撃が大きかった。イングランド国内にはスペインとのの直接対決を望む声も多かった。だが、戦争する余裕の無い両国は1573年以来、和解のための折衝を続けていた。1574年、両国間にブリストル条約が締結され、相互に差し押さえていた資産の返還あるいは保障を約束した。しかし、この条約には新大陸への無断の貿易や大西洋上などでの私拿捕活動については全く言及されていなかった。これがエリザベス1世の狡猾さでもあり、フェリペ2世の甘いところであった。後にみすみすスペインはドレイクによる海賊行為を許すことになる。ともあれ、この和解により両国およびネーデルラントの間の通称は一時的に回復した。しかし、このつかの間の平和も長くは続かなかった。1577年末に、ネーデルラント情勢の緊張を受け、エリザベスはマドリッドに使節を派遣して、「ネーデルラントの流血は、貴下の名誉と利益のためにも悲しむべきことで、われわれが調停してはどうかと考えます」と伝えさせた。フェリペ2世は丁重にこの調停を拒否した。この時点においても、両国は明らかに敵対していながら、財政難に悩まされ決定的な対決は避けていた。  


+無敵艦隊+

 1580年、スペインはポルトガル併合によって国力をさらに増強させ積極的な外交政策を行った。16世紀のポルトガルは西欧諸国の先頭をきってアジアに進出し、やがてその大商船隊をもって特に香料を独占貿易し、多大な富を得た。また、南米大陸にも進出しブラジルを植民地とした。このポルトガルの全盛期にスペインのフェリペ2世にポルトガルの王位継承権が転がり込んできたのである。ポルトガルはこのスペインによる併合により、イングランド・ネーデルラントと敵対し、アジアにおける貿易拠点を半分にまで減らしてしまった。1570年代後半から、直接対決を執拗に避けてきた両国王であったが、1580年代半ばにもなるとイングランドのネーデルラントへの援軍派遣により、対立は決定的なものとなった。フェリペ2世はスペイン大艦隊によるイングランド攻撃を構想し始めた。もともとこの構想はレパント海戦において勝利の貢献者となったサンタ=クルーズ候が既に提唱していた。1587年、前スコットランド女王であるメアリ=ステュアートがエリザベスに処刑されたのを機に「無敵艦隊」を編成した。無敵艦隊の名称は後世にイギリス人がつけたものでスペイン語では単に「Gran Armada(大艦隊)」、「Felicisima Armada(最も幸運な艦隊)」と呼ばれていた。一方エリザベスも海賊ドレイク、ホーキンズらに命じてカリブ海から本国へ富を運ぶスペイン船を襲撃させた。ドレイクはスペインのカディス港を急襲して三十七隻を沈め、「スペイン国王の髭を焼いてやった」と豪語して、スペインを刺激した。
 スペイン海軍はガレー船を中心としたかなり旧式な艦船を主力としていた。スペインのガレー船は船首と船尾に数門の大砲を備えた一段配列のオール船で、三本のマストで長距離の帆走もできる200トンくらいまでの艦船であり、船上での白兵戦を目的としていた。対して、イングランド艦隊は艦船の総数でも、総トン数でもスペイン艦隊に劣ったが、その主力は大きいもので500トンはあるガレオン船によって構成され、左右両弦に多数の大砲を搭載し大砲の砲撃力によって敵艦を制圧することを目的とした新鋭の艦隊であった。
 スペインのアルマダ計画には大艦隊の行動に必要な食料・船具・武具・・弾薬などの準備が必要であり、艦船の準備が最重要の課題であった。スペインは1586年ごろから既に、物資の調達、艦船の新造や改装を進めていた。 


+アルマダ海戦へ+

 ドレイクによるカディス襲撃でスペイン艦隊はかなりの損害を受けるが、1587年夏以降には持ち直して、再び新艦船の建造・改装に着手した。しかし、後遺症が大きく計画は思うように進まなかった。さらにアルマダ計画の発案者で有能な海軍提督であるサンタ=クルーズ候が1588年2月にこの世を去ってしまう。フェリペ2世はアンダルシア総督のメディナ=シドニア公を代わりに総司令官に任命したが、その理由は彼が大貴族であるからというだけのものであった。1588年4月スペイン無敵艦隊はリスボン港に集結した。フェリペ2世は総司令官メディナ=シドニア公に当てて、注意しべき点を何度も書き送った。その内容は「ネーデルラントのからのパルマ公との合流が重要で、それまではイングランド艦隊が攻撃してきても、なるべく戦闘を避けて、積極的に攻撃しないように」「敵艦はスペイン艦隊の速度があり、射程の長い砲を備えているので、敵は距離を置いて近づいてこないであろう。そこで風上の位置をとって、一気に攻め込み接近戦の機会を狙うこと」といったもであった。これはカディス港における教訓を盛り込んだものであった。
 戦闘艦68隻を含む130隻、総トン数57868トン、砲2431門、水兵8050名、陸兵18973名、医師62名、修道僧180名、従士450名で編成されたスペイン無敵艦隊は、1588年5月9日朝リスボンを出港するが、イベリア半島北西を北上中に猛烈な嵐に襲われたり、補給水の腐敗により六月半ばに一時的にラ・コルニャに入港しなければならなかった。一方この情報をつかんだイングランド艦隊はプリマスから出港するが、同様に悪天候に襲われ、プリマスに引き返さざるをえなかった。こうして両艦隊の激突は七月末の英仏海峡まで持ち越された。


+決戦+

 1588年7月19日、スペイン無敵艦隊はイングランド南西端のリザード岬沖に姿を現した。イングランド艦隊とスペイン無敵艦隊は7月21日に互いを認識できるまでに接近した。メディナ=シドニアは旗艦サン=マルティン号の号令下に三日月の陣形を敷いた。敵艦隊が中央を攻撃してくれば両翼で包囲し、四方から接弦し斬り込むという戦法であった。パルマ公との合流を第一に考えたスペイン艦隊は防御に有利なこの陣形をとったため、イングランド艦隊は簡単に手出しができず、イングランド側の重要な島拠点にスペイン艦隊の上陸を阻止するための小競り合い以外は、一週間ほど東進するスペイン艦隊を追いかけるいう形になった。
 7月27日、パルマ公の陸軍と合流するためスペイン艦隊はカレー沖に停泊した。対するイングランド艦隊もドーヴァー海峡のシーモア艦隊と合流し、スペイン艦隊の西方1600メートルに停泊した。このときのイングランド艦隊の陣容は女王海軍34隻、ハワード艦隊76隻、ドレイク艦隊34隻、シーモア艦隊23隻、ロンドン艦隊30隻の計197隻、総トン数25967トン、兵員15925名、砲1972門といったものであった。パルマ公との合流を阻止するために、イングランド艦隊は各艦隊から大きくて150トン以上小さくても90トン以上の船を火船として用い、これに燃えやすいものを満載し、火で熱せられれば砲弾が発射されるようにしかけた砲も搭載した。そして28日深夜、風上に立ったイングランド艦隊は、8隻の火船を敵艦隊に向けて一気に放った。闇からの不意打ちにスペイン艦隊は大混乱に陥り、大多数の艦船が炎上し失われた。態勢を立て直す暇も無く、スペイン艦隊は砲弾の嵐を浴びた。三日月の陣形が崩れ、イングランド艦隊は艦砲の射程にスペイン艦隊を捉えることができたのである。夕刻まで続いたこの砲撃戦によってスペイン艦隊は壊滅的な被害を受けた。


+アルマダ敗走+

 壊滅的被害を受けたスペイン無敵艦隊は陣形を組み直し、イングランドの港を占領しようとしたがそれは不可能な話であった。敗残のスペイン艦隊は翌日30日の午前、風向きが南西に変わってやっと北海に脱出することができた。北に敗走するスペイン艦隊をイングランド艦隊は追撃するが、脅威が去ったのを見て取るとスコットランドのフォース湾沖で追撃を打ち切った。なんとか脱出した敗残スペイン艦隊であったが、スコットランドの北を回り、アイルランドの西を通過しての航海は困難を極めた。嵐が容赦なく艦隊を襲い、難破・座礁などにより約8000人もの兵員・船員が命を落とした。メディナ=シドニアと共にスペインに帰ることのできた艦船は60隻のみであった。敗報を聞いたフェリペ2世はあきらめることなくただちに無敵艦隊の再編成に取り組み、わずか二年でそれを成し遂げている。フェリペ2世は1590年代に三度にわたってイングランド侵攻を試みたが、いずれも失敗に終わった。
 アルマダ敗戦の後、スペインはしばらく大西洋の制海権を保つが、1600年代に入るとそれも失われ、イングランド・ネーデルラントにとって代わられた。フェリペ2世が世を去り、後継者のフェリペ3世が立ったときにはスペインの財政は破綻していた。



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