伊達輝宗 人取橋の悲劇 享年42歳 天正十三(1585)年、政宗率いる鉄砲部隊の射撃により輝宗はその生涯を閉じた。輝宗は自らの命と引き換えに政宗に戦国非情の精神を叩き込んだのである。 この年、畠山(二本松)義継は伊達氏との和睦成立の仲介に協力を惜しまなかった輝宗への御礼に、輝宗の館を訪問する。だが疑心暗鬼に陥っていた義継は血迷ったか輝宗を拉致し逃走。変事を聞きつけ、すぐさま父救援の兵を差し向ける政宗であったが、政宗の追撃軍が追いついた時には、畠山領内目前の阿武隈川手前であった。輝宗は己の油断を後悔しつつ、自分もろとも義継を討つように命じる。政宗は父の意を汲み、絶叫した。撃て、と。この瞬間、政宗は自らの最大の理解者であった父を失った。これと同時に鬼謀をもって天下に恐れられた政宗の覇道が始まる。 輝宗が伊達家の家督を継いだのは、永禄八(1565)年のことである。「輝」の字は足利義輝の偏諱を受けたものである。継いだといっても、父・晴宗の方針に反発した輝宗が、晴宗を幽閉した上での家督相続であった。晴宗は寵臣である中野宗時を優遇し、伊達家中においてその権勢は主君・晴宗を凌ぐ勢いであったという。伊達家の将来を憂えた上での決断であった。幽閉された晴宗も「天文の大乱」において父・稙宗を隠居させ家督を継いでいる。 輝宗は家臣団の助けもあって、衰退しきった伊達家を建て直すことに成功する。そして、嫡子・梵天丸元服の際には一族の期待を込め、伊達氏中興の祖「政宗」から名を名づけた。やがて、政宗の器量が尋常ならぬことを見抜くと、四十一歳の若さで家督を政宗に譲ってしまう。父や祖父の代の二の舞にはならず、伊達家は政宗を中心に結束を一層強めていった。この隠居によって輝宗は次男竺丸を擁立しようとする正室義姫の策略、さらにはその背後に見え隠れする最上家の思惑を封じ込めることに成功する。 輝宗の気性は凡庸に思えてしまうほど、穏やかであったという。輝宗は自らの能力の限界を自覚し、家臣の意見をよく聞いた。さらに、才あるものに対しては心から賞賛を送った。それが輝宗の一番の魅力であった。長子である政宗にはその愛情を惜しみなく分け与えた。片目の意地っ張りな少年にとってこの温和な父は大きな存在であったに違いない。 家督を政宗に譲り、この世での役目はもう終えたかのように輝宗は人取橋に逝った。 |