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長尾為景 為景の名をを知る人は必ずそれよりも前に上杉謙信の名を知る。為景の名を見かける機会があった場合、それは「謙信の父」という場合がほとんどであろう。謙信の活躍は言わずもがなである。だが謙信の活躍を語る前に、彼の父である為景の越後統一の執念を忘れてはならない。 長尾氏は桓武平氏の流れをくむ名門である。越後守護である上杉氏の下、守護代としてその影響力を代々越後に浸透させてきた。在京の多い上杉氏に代わって直接越後の政務を司っていた長尾氏の勢力が伸びるのは自明なことであった。長い雌伏期間を経て、やがて雄飛するときが来た。それが第十代当主為景のときである。 長尾氏は為景の父・能景の代に、強大な軍事力をもって越後守護上杉氏だけでなく、しばしば関東管領・上杉顕定を助けて活躍した。のちに為景が自刃に追い詰めることになる越後守護・上杉房能は顕定の実弟である。越中で一向一揆の活動が活発となり、能景は能登畠山氏と連携し、越中に出陣。しかし、般若野で一揆勢に敗れ、戦死してしまう。 永正3年(1506)、父の戦死により為景は守護代の地位を相続した。為景は家督を引き継ぐや否や、主君である越後守護・上杉房能に牙をむいた。永正4年(1507)八月、すでに越後での実権を失いかけていた房能に対し為景は房能の養子・定実を奉じて挙兵する。そして瞬く間に房能を越後府中から追放し、自刃させた。越後の梟雄、長尾為景の誕生である。 こうして守護を傀儡化し、越後の実権を完全に掌握した為景であったが、一つの敵を葬り去ることによってまた新たな敵を出現させる。関東管領・上杉顕定である。弟を殺され怒った顕定は関東管領の名で集めるだけの兵を集め、越後に乱入した。これにはさすがの為景も隣国越中、さらには海を渡り佐渡にまで退去した。 だが翌年、為景は軍を再編成して反撃に転じ、顕定を長森原で敗死せしめる。これにて為景は二人の主君を死に追いやった。時代はもはや完全に下克上の戦国であった。 以後の為景は越後の地盤を着々と固め、大永七年(1527)に将軍義晴から大名の待遇を与えられ、天文四年(1535)には天皇から御旗を、翌五年には内乱鎮定の綸旨を賜っている。だが、為景の過度な力まかせの専横化は自立性の強い越後国人衆の反感を買い、徐々に守護定実との関係も険悪なものとなっていった。この国人たちとの対立の影響は景虎の代まで尾を引くことになる。 為景は家督を長子・晴景に譲ったあとも脆弱な晴景を補佐するように二頭政治を行った。しかし、天文五年(1536)十二月に六十六歳で没する。病死とも、戦死とも。為景派と反為景派が対立する真っ只中のことであった。 合戦に出陣すること百回をゆうに数え、主君を死に追い込むこと二度、生涯下克上を体現してきた梟雄はついに逝った。 幼き龍、虎千代は春日山城下の林泉寺にあっていまだ七歳… |