荒木村重

世捨て人「道糞」 享年52歳

 荒木村重は摂津国人・池田勝正の配下から身を興し、主家をも凌ぐ勢力となり、長じては摂津一国を領有するに至った。そして信長の勢力が近畿にまで及んでくるとこれに従属して、摂津全般の切り盛りを任された。本願寺との石山合戦では主将の一人として、秀吉の播磨平定の際には秀吉の副将格としてその軍才を発揮した。

 しかし天正六年十月、村重は突如として信長を裏切る。村重の従兄弟の中川清秀の家臣が本願寺に米を売ったことから、摂津国主である村重にも、信長の疑いの目がむけられたのである。信長は当初明智光秀・松井夕閑らを村重に遣わし、母を人質に差し出し、安土に弁明に訪れれば赦免するという、信長にしては珍しい寛大な条件を提示した。しかし村重は、高山右近・中川清秀らの「信長は一度裏切った者は赦さない」という諫言を受け入れ、有岡城に篭城することを決意する。だが、信長はなおも村重を説得しようとし、光秀や秀吉を使者に遣わした。が、いったん決意した村重の心を翻すには至らなかった。信長の苛烈な性格を村重が恐れたのかどうか。謀叛に至るまでの村重の心の変化は謎である。

 かくて村重は信長に徹底抗戦する。だが、村重の頼りとする右近と清秀は信長にあっさり降伏する。そして、信長の先鋒となって村重に刃を向けた。孤立した村重の心中はどうだったであろうか。その後も村重はまるで意地を貫くかのように、信長に刃向かいつづける。村重は人質を取引に利用しようとはせず、嫡男村次の嫁であった光秀の娘を送り返し、右近の娘二人も解放し、黒田官兵衛も殺さなかった。

 調略を断念した信長は、十二月、有岡城に総攻撃をかける。が、有岡城は落ちない。篭城して持ちこたえる間、村重は毛利に救援を要請するがいっこうに毛利は助けにこなかった。十ヶ月にも及ぶ篭城に窮した村重は、天正七年九月、僅か数名の供のみを連れて夜中に包囲網突破を計り、毛利の援軍催促に村次の守る尼崎城を目指した。しかし主君不在となった有岡城は持ちこたえられず十月に落城。

 信長は村重が篭る尼崎城と花隈城開城を条件に村重の一族郎党の助命を申し出る。しかし、村重はこれを「さすれば共に戦っている毛利、本願寺、雑賀はどうなる」と言って断固拒んだ。そしてそれは村重の一族郎党の死を意味した。妻たしはをはじめとする村重の一族郎党は尼崎城近くの処刑場でその躯を晒すこととなった。村重は地獄を見た。意地を通した結果であった。

 その後、尼崎城と花隈城は落城し、村重は茶器のみを持って船で落ちた。世の人は村重を「一族を見殺しにした男」「裏切り者」と蔑んだ。そして自らも「道糞」と名乗り、自分を貶めた。

 謀叛の経緯を知る秀吉は「道薫」と名を改めさせ、村重に捨扶持を与えた。秀吉政権下で村重は「利休七哲」の一人に数えられる。それは空虚な村重にとって慰めとなったのだろうか。

 のちに村重は秀吉の下をも去り、堺で死んだ。





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