真田昌幸
〜表裏比興の者〜



 ――――表裏比興の者。秀吉は昌幸をこう評した。煮ても焼いても食えない奴。だが、肉親さえも信用できない戦国の世では、むしろ表裏比興でなければ生き残れない。昌幸にとっては最高の賛辞であろう。

 真田氏は、もともと信濃国の豪族であった名門滋野氏の分家、海野氏の一族で、海野棟綱の子である幸隆が小県郡真田庄に住んでより、真田氏を称した。この幸隆が昌幸の父である。幸隆はその謀略と人脈の多彩さで、武田信玄の信濃攻略に多大なる功績を残した。若き日の信玄が攻略しようとして失敗した村上義清の砥石城を、幸隆はわずかな兵で奇襲をかけて瞬く間に奪取してしまった。これより、信州の一豪族であった真田氏は信玄の絶大なる信頼を勝ち取る。

 昌幸は幸隆の三男である。上には既に長兄信綱、次兄昌輝が誕生していた。源五郎と名乗っていた七歳の時、人質として甲府に送られ、信玄の側近となる。人質とは名目上のことであり、信玄はこの聡明な少年を常に自らの近くに置いた。後世、『真田日本一の兵』と呼ばれる軍略を昌幸は吸収していく。いかに領国を発展させていくか。いかに負けない戦をするか。信玄の傍に仕えた十五年間、昌幸の武将としての才覚は鋭利に磨かれていった。

 初陣は昌幸十五歳のときである。世にも名高い、永録四年(1561)の第四次川中島の戦いである。昌幸は乱戦の中、本陣を固める旗本隊として信玄の傍を片時も離れず、信玄の警護にあたった。そして昌幸は信玄の命で、絶家となっていた甲斐の名門・武藤家の名跡を継ぎ、武藤喜兵衛と名乗りを改める。以降も信玄が没するまで、昌幸は信玄の側近として活躍する。

 しかし、信玄没後、昌幸の運命は激変する。信玄が上洛の志半ばに急死すると、その翌年に父・幸隆も病没してしまう。幸隆は小勢力である真田の家を心血注いで存続させてきた最大の功労者であった。その幸隆が六十二歳でこの世を去った。信玄の死を知ったとき、幸隆は落胆のあまり、七日六夜の間、食を断ったという。かくして、真田家の家督は兄である信綱が継ぐ。だが、猛将で鳴らした信綱も、さらに次兄の昌輝も、設楽ヶ原で織田の鉄砲の前に勝頼の盾となって散る。ただちに、勝頼は武藤喜兵衛と名乗っていた昌幸を真田に復姓せしめ、上州守護を命じ、家督を継がせた。「真田昌幸」の名が世に出るのはこのときからである。天正八年頃からは安房守をも名乗るようになる。

 時の流れは武田家に味方せず、信長の前に武田家はその勢いを失っていく。そして天正十年(1582)、織田軍の総攻撃の際、昌幸は勝頼を上州に逃すべく働くが、勝頼はこれを活かせず、自決の道を選ぶ。主家である武田家は滅亡、昌幸は新しい時代の支配者・信長にいったんは臣従するが、信長も本能寺の変に倒れる。

 意図せずして、大名としての自立を獲得した昌幸は目まぐるしく主家を変えつつ真田家の存続を図っていく。北条・上杉・徳川・豊臣ら大大名に囲まれた状況で、少年時代に信玄から吸収した外交・戦略が、父幸隆から受け継いだ神出鬼没の用兵が、見事に花開いていった。徳川氏に臣従していた天正十三年(1585)、秀吉と家康が対立を深める中、昌幸は突如としてそれまで敵対していた上杉景勝についた。景勝の背後には着々と天下統一を進める秀吉がいた。これに激怒した家康は、真田討伐の軍を差し向ける。

 昌幸は息子の信幸・幸村に命じて、上田城から約四キロ離れた神川西に布陣させ、徳川勢が攻めかかると一戦して退き、城下にまで敵を誘い込むや、一挙に包囲攻撃を仕掛けた。不意を突かれた徳川勢は真田勢に散々に討ち破られる。結局、秀吉の仲裁により和議がなり、形上は徳川配下となるが、昌幸の武名は高まった。

 しかし、東国の一大名にすぎぬことを自覚していた昌幸は、信幸の妻に本多忠勝の娘・小松を娶らせ、幸村を秀吉の下へ人質として赴かせた。天下が秀吉と家康どちらに転んでもぬかり無きように。そして天下は秀吉のものとなった。北条はこの世から消滅し、上杉そして徳川は秀吉傘下となった。

 さらに時代は動き、秀吉が没すると、家康は公然と天下を狙い、それを三成は妨げようとする。天下は真っ二つになり、真田も真っ二つに分かれた。昌幸・幸村は西軍、信之は東軍についた。ここでも昌幸は自家の存続をはかった。それにもまして、昌幸は家康が嫌いであった。むしろ豪快な気質で敵対関係をさらりと水に流してしまった上杉景勝、幸村の舅でもある情に厚い大谷吉継、そして人質として差し出した幸村を厚遇し、なにかと真田家に対して好意を示してくれた太閤秀吉を表裏なしに昌幸は好いていた。真田が中山道を関ヶ原方面に向かう徳川秀忠の三万八千の大軍を上田城で迎撃し、足止めすれば西軍の勝利は見えていた。そして昌幸と幸村は見事に秀忠を関ヶ原に遅参せしめる。

 だが、それをもってしても将帥として家康と三成とでは器が違った。昌幸は敗軍の将として紀州九度山に流される。信之や忠勝の助命嘆願がなければ死を賜ったであろうほどに家康の恨みは深かった。

 そして、二度と世に出ることなく、一生を終えるのである。




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