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陶晴賢 西国の大大名であった大内氏の下には、周防守護代の陶氏・長門守護代の内藤氏・豊前守護代の杉氏の三家があり、隆房(のちの晴賢)の陶氏は代々筆頭家老の家柄であった。隆房は大内氏の重鎮であった父・興房の病死によって、十九歳にして跡を継いだ。晴賢に改名する前の隆房の「隆」は主君・大内義隆よりの諱名である。若年の頃は、容姿が非常に端麗で、義隆に寵愛されたとも言われる。 しかし長じて家督を継ぐと、幾多の戦場を駆け巡り「西国無双の侍大将」と評せられるまでになる。天文9年(1540年)に尼子晴久が安芸国を侵略し、毛利元就の吉田郡山城を包囲した際にも、同盟関係にある毛利元就を救援するため兵一万を率い布陣。元就と連携し、尼子軍を敗退させている。 また、隆房はのちに刃を交えることとなる元就の次男・元春と義兄弟の契りを結んでもいる。同じ武辺者として気が合ったのであろう。 これにより大内家内で武断派としての自信をつけた隆房は、天文11年(1542年)自らの立案により兵五万を率いて先代経久の死後間もない尼子氏討伐に出陣する。しかし尼子の頑強な抵抗にあい、戦は長引き大内軍では内部分裂などが起こり、大敗を喫する。 隆房はこの敗戦を自らの非と認めず、大内義隆や文治派の相良武任らの文弱のせいにした。これには義隆もおもしろくなく、より相良武任を重んじるようになり学問・和歌・連歌にのめり込んでいった。こうして、義隆と隆房の間には深い溝が生じてしまった。 主君義隆の学問・芸能への傾倒が政治を乱れさせているのを見過ごせなかった隆房は、義隆に幾度も諫言するが義隆はもはや聞く耳を持たなかった。そして天文19年(1550年)には隆房が謀叛をたくらんでいるという噂が広まりはじめるまでの事態となる。このときは隆房の真摯な弁明によって許されるが、隆房はこれ以降山口を離れ義隆に諫言することはなくなった。これ以上は無駄であり、己自信の身も危ないと悟ったのであろう。 隆房に謀叛の心が芽生えた。決意するや隆房の行動は早く、大内氏や毛利氏などに根回しをし、さらには義隆の近習までも取り込んで情報を得ていた。そして天文20年(1551年)八月ついに決起する。まさか背くまいと思っていた義隆は虚をつかれ、義隆の軍勢は瞬時にして壊滅し、義隆自身は大寧寺へ押し込められた。隆房は和議の申し入れも拒否したため、義隆は自刃する。六カ国の太守のあっけない最後であった。隆房は主殺しの美酒に酔った。 隆房は大友氏より宗麟の弟晴英を後継当主に迎え大内義長と名乗らせ、自身も「晴」の字の偏諱を受け「晴賢」と改名した。絶頂の晴賢は義長を傀儡として大内氏を牛耳り、中国に覇を唱えようとした。しかし、同じく野望を持った毛利元就がその前に立ちはだかった。晴賢が石見の吉見氏を攻略している隙を狙い、元就は晴賢に牙をむく。 こうして晴賢と元就は対立することになるが、晴賢は元就の謀略によって自身の身を徐々に危うくしていく。元就の謀才を見抜き、侮るなかれと進言した江良房栄を元就の策略にはまり、晴賢自ら殺害してしまう。 晴賢の命運を決した厳島の合戦においても、兵の数で絶対的に有利な立場にありながら、元就の策略によって厳島におびき出されてしまう。このとき元就の策を見抜いた弘中隆兼が晴賢に諫言したが、それを逆手に利用した元就の隆兼謀叛の流言を信じた晴賢はこれを聞き入れなかった。もはや晴賢が信じているものは自分のみであった。 狭い厳島に誘き出された陶軍は暴風雨の中、毛利軍の奇襲によって大混乱に陥り壊滅する。晴賢は島の西岸に逃げるも船を壊され、渡海は不可能と知り、観念し自刃する。 晴賢の「武」は元就の圧倒的な「智」の前に砕け散った。 晴賢を下した元就はすぐさま長門を攻め、大内義長をも自刃に追い込む。こうして中国の覇権は毛利氏のものとなるのである。 義隆と晴賢、結局は両者ともに戦国の露と消えた。 |